ghouten’s diary

mi amas mono.

意識喪失型決戦兵器

 ですます調のほうが、人に向かって文章を書いている気分になれると思うので、試みとしてやってみようと思います。これまで考えていたように文章の長さで住み分けるのではなく、気の持ち方で住み分けてみます。つまり、twitterがだである調で緊張感のない独り言や詩を担当、ダイアリーがですます調で気を引き締めた広報担当になるわけです。いかにも唐突な方向転換ですが、というのも、とある人の日記を見てインスピレーションを受けたからです。語りかけるともなく語りかけてるなあ、こういう可能性もあるんだなあと。思ったようなものができるのかわかりませんが、飽きるまで、とりあえずやってみますよ。
 
 いきなり労働の話ですが、今週、不思議なメールを書きました。謝罪の言葉を使わない反省文、とでもいうのでしょうか。ここ2週間ほど社内が大騒ぎになっている件に関して、上司から「お前を責めるつもりじゃないので、まずは事実を教えてくれ」という指令が出たのでした。そこで私も淡々と、自分の知ってる事実を書き連ね、再発防止案を一言添えてメールしたのです。反省文のつもりじゃなかったから当然謝罪の言葉もありません。ところがあとから「あなたのあの“反省文”が云々」と言われてびっくりしてしまったのです。えっ、あれって反省文になってたんだ、と。さて“不思議なメール”と言ったのはそこからが変わっているからで、不思議と重苦しい気持ちがすっきりしてしまったのですね。おそらく謝罪の言葉を書く以上に、です。きっと自分自身を、一歩引いて見ることができたのでしょう。思えば、いつも闇雲に走り続けていて、何も見えていなかったようでもあります。こんなふうに、立ち止まって振り返る時間がもっと必要なのかもしれません。
 
 過去を振り返る、とは少し違いますが、ここ最近、昔の歌謡曲をよく聴いています。物によっては昭和の歌をダウンロード購入したり、歌謡曲番組をわざわざ録画したりしています。もともと音楽、特に流行歌はあまり聴かないほうでしたが、いま積極的に聴いているというのも不思議なものです。昔の歌はわかりやすいというか、すっと入ってくる気がします。なんて言うとなんだか、最近の音楽はダメになったと言い出す方々みたいですが、この意見には異を唱えます。私の勝手な仮説ですが、つまり“昔の歌”ではなく“現在まで生き残っている歌”という解釈が正しいのではないでしょうか。昔も今も玉石混合なのは変わりません。でも昔の石はとっくに忘れ去られ、いっぽう昔の玉は時の試練に耐え、歌い継がれていきます。玉しか残っていないから“昔の歌”は良いのです。まあどう解釈するにせよ、すでに多くの人に認められたもの、良い物ばかりなのは事実です。逆にもし最新の流行を追いかけようとすれば、大量の玉と石に触れ、選別しなければならなくなります。そのどちらを好むかの話です。私はもう随分くたびれた大人なので、質の悪い物にまで触れて選別する気力はありません。手軽に美味しいところだけに触れられる前者を積極的に選んでいる、というわけですね。
 
 質の悪い物に触れない、に関連して取り組んでいることがありまして、それは腹が立つだけの情報には触れない、ということです。例えば芸能スキャンダルのような、誰かを吊し上げて批判するだけの記事はスルーする。ネット上の炎上事件も、炎上していることを知るだけにとどめ、現場は見ない。こういった情報は、読めば読むほどただムカムカするだけで、何の結論も知恵も得られないことが経験的に明確だからです。元を正せば、自分と関わりのない、知らない誰かがバカなことをした、それだけの情報です。それって自分にとって必要ですか。そんなことのために読む時間と怒るエネルギーを使うなんて、なんだかおかしいじゃないですか。メディアやネットで大きく扱われてるから重要なことのように錯覚させられてしまうけど、実は伝える側にとって重要なだけで、読者にとってはまったく重要ではありません。それに気づいてから、その手の情報に「釣られない」よう意識するようになりました。幾分、ネットをみてイライラすることが少なくなった気がします。あるいは「今日もイライラせずに済んだ」という満足感なのかもしれませんが。
 
 習慣を作る、あるいはやめるというのはなかなか大変なものです。たしか昔、本で読んだのですが、曰く二週間続けなさい、そうすれば定着する、と。また、定着するまでに二個以上並行して取り組んではいけない、絶対に無理が出る、と。これは確かに本当のように見えるし、一見簡単です。ただその「二週間ずっと意識する」「欲張らない」ができないから苦しいのです。まずはリストを作ったりして、今何に取り組んでいるのか、いつでも目に入るようにすることが必要でしょう。そうしたら「毎日見る」という習慣がまず必要でしょう。「管理・更新する」という習慣も必要でしょう。またそこができないから苦しいのです、みたいな感じで思考が堂々巡りになって、結局気力不足が勝って何もやらずじまいというのがある意味「習慣」なんですね。
 
 あらゆることが最終的に「気力」に帰着してしまってる気がします。脳が疲労している、というやつでしょうか。まったく、脳はわがままな機械です。体調・気分から環境から作業姿勢まで、ちょっとした妨害要素があるだけでずんずん性能が下がっていき、仕事に集中しなかったり、すぐ休むようになります。挙句頭痛まで起こすという。取れるものなら脳を取り外してみたいものですね。脳を取り外してメロンパンでも入れてみましょうか?
 
 なんかフワフワしますが、こんな感じでしょうか?結局何も変わっていないような気もしないではないですが。使ってない脳の部分を使った気はしますよ?
 
 
骨と肉 溶け出すような 二十九度

Sigh & Gold

 異なる言語の交流、つまり翻訳という作業の必要性から、言葉に「正しい」だの「乱れている」だのという評価がつくようになる。本来は、仲間内で意思が通じさえすれば十分であって、そんな評価は存在しないはずなのだ。だいたい、現代の正しいとされている言葉だって、もし江戸時代の人が聞いたら乱れていると感じるだろうし、奈良時代の人が聞いたら外国語だと思うだろう。本来、言葉なんてそんなフワフワしたもの。伝わるかどうかを考えながら、試しながら、自由に言葉を使えばいい。点数主義に染まった挙句、訛っているから、ブロークンだからと恥じて諦めるのは、全くもったいのないことだと思う。
 
 やろうと思えば、虚数で愛を語ることだってできるはずなのだ。iのi乗とか。
 
 「最高」と何度言ったか分からない。すべてが完璧に計算しつくされていた。5時半に打ち逃げを決めた結果、夕焼けに染まるビル街とトラス橋が眼前に突如広がる。アフリカの夕日がどうこう、船乗りの愛人がどうこう、なんて想像が吹き飛ぶ。道にはまったく迷わない。6回くらいから、すっごくいい席で、たこ焼きのような、豚のお好み焼きのようなお祭りフードをたらふく食べながらの観戦となった。何度となく沸き起こるウェーブやブーイングに興奮。キスカムのトリでなぜか足を首の後ろに回すヨガをしはじめる少年に大喝采。9回表で点を取られたと思ったら裏で出るホームラン、そして花火がドーン。にらみ合いのような果てしない延長戦ながら、素晴らしいストップあり、きわどいセーフのビデオ判定あり。結局、16回裏、12時半に唐突にホームランが出てさっくり終わる。また大興奮。これで負けてたら最悪しかなかった。魅せるねえ。よくわからないけど駐車場はタダだった。AORは眠い。パナメーラ欲しい。偽アーチのある街でテキーラサンシャインに変えて、無言の帰着をする3時半。とろけそう。
 
 また写真を撮って録画を消すという暴挙に出ている。雑なスクラップ帳を作っている。グロテスクな幼稚園の子供たちのように。だから言ったのさ。テレビなんて録画してまで見るものではないのだと。
 
 はい、1GB突破でーす。
 
 
夢と胸 焦がすは午後の 甘味料

四角い頭を展開図にする

 ピュッと言う間にひと月が、5週間が通り過ぎる。最初は感覚のパンクから妙なハイに、やがて無気力の泥沼へ浸かる。そして徐々に回復してくる。規則正しく生活できないのは、やはり自分の思っているその「規則」にいろいろな無理があるからだろう。いかに無理をしないか、やることを最低限に少なくして、なおかつ文化的で居続けることができるか、そこが問題だ。
 
 引っ込みのつかない悪乗りに群衆が飲まれていく。狂想。空気という化け物に。どうしてこんな華々しい舞台に盛大に泥塗るんだい、という「鏡子の家」チックな場面だと一人思う。だんどぅびわだっ。宅急便の魔女は水に濡れると溶けるから、水には落ちない。雨に濡れたら貨車に飛び込む。これも黒。貨物車は綺麗に停められない。助けて棟梁、小統領。値段も知らない名前も知らない酒を買いに行くカード万能社会。写メ万能社会。これはほとんど魔法だ。携帯を貸してと言うほどほろ酔いし。だいたい卑屈になるよな。卑屈で頑固。そう、方向音痴は酔っているほうが迷わない。日はまだ落ちないぞ。飛び蹴りは横から落ちて、腹から落ちて、回転しては落ちられなくて、三回も落ちるのは記録的なんじゃないかな。悪役。写メ万能社会。万能だけど、濡れたら記憶は溶ける。そんな泥に泥塗るみじめな騒ぎ。ものもらいちゃんにならなくてよかった。
 
 決してまとまることはないのだけれど、ちょっとだけ、断片だけ、捕まえて標本にすることができたと思う。忘れられない夏にしような。
 
 「アルコールは毒でもあり薬でもあり、よって毒にも薬にもならないのだろう。本質的には、体に入れなくても良い物なのだ。もしアルコールが薬なのであれば、進化論的にはアルコール不堪症の人は絶滅しているはずだ。」なんてことを考えていたらしい。考えていた記憶を無くすのだから怖い。ずっと正気のつもりでいるけど、意識は連続していなくて、実はときどき狂気に陥ってるのだろう。怖い。
 
 また夢でトイレをよく探してる気がする。ささやかな物を食べてる気がする。親や祖父母が出てる気がする。パターンに陥るのは、疲労と自信過剰との間を振り子のように動いているからか。
 
 音楽や芸術やスポーツや雑学は確かに文化だろう。ただ、何にしても確実に人生を消費する。やりすぎ、ダラダラ無制限はよろしくない。時間割にする試みは現に失敗してるし、きっと成功することはない。だから優先度をつけて、例えば睡眠や食事は高い優先度にすれば、安定してくるのかもしれないけど。また迷子になるだけかな。
 
 迷子になるにはいい時間帯だ。迷子お化けが寝ない子を迎えに来る時間帯だ。寝よう。
 
 
お湯掛けて 戻るフリして ランナウェイ

想像していたよりもずっと論理な夜

 土曜日の朝は夢を見る。ラッシュ時の駅構内。なぜか自転車を持っていかなければならない。ばらして輪行バッグに入れられるタイプじゃないらしく、立てて運ぶのだ。ホームへ上がり、最後尾の車両に乗ろうとするのだが、なかなか列が進まない。やっと乗れたと思ったら、今度は後ろの人がなぜか続けて乗ってこない。様子を見ると、行列の先頭にいる二人組のDQNが駅員と口論をしているのだった。あれこれわめいて、切符を買うのに5分も並んだ、だったか、つまらないことをいかにも大変な労力を使わされたみたいに非難する。すると行列の後ろでこれを見ていた若い女性が思わず「ダサイ・・・」と一言。人々が口々に「ダサイ」と呟き始め、しまいには「ダッサッイッ!あ、そーれ、ダッサッイッ!」というわけのわからない大合唱になる。いつの間にか、自分はそれを電車の中からではなくテレビの画面で見ていて、ダサイがヤサイに変化していき「ヤッサッイッ!あ、そーれ、ヤッサッイ!あ、そーれ、ヤッサッイッは、ビタミンC!」と、実は野菜ジュースのコマーシャルでしたという。
 
 連続で夢を見る。居酒屋でひとり夕食をとっている。テーブル席でいろいろ頼んでそそくさ適当に済ませ、会計して帰るつもりでカウンターに。カウンターの隅には、カレンダーだかプリントゴッコだか、何か売り物が、いかにも売る気がなさそうに適当なポップを貼られて置いてある。店員のお姉さんに、そのポップに書かれている数字、dpi だか、の計算が違うのではと指摘する。店員が電卓を叩くと、およそ7.000という数字が出てきて、なるほど計算途中の係数が間違っていたらしいことがわかり、「チーフ!チーフ!」と慌て始める。ところで何しに来たんだっけ。なぜか自分の前には、突き出し的な小料理が出されている。美味しそうだし腹には余裕があるので、あまり考えず手を付けてしまう。横のほうでは、自動車関係という男が店員と、混雑で電車に乗れなくて歩いてきたみたいな話をしている。
 
 水曜日だっけ木曜日だっけ、伊勢志摩サミット、厳戒態勢の中で伊勢神宮に各国首脳が続々到着、の生中継を見た。さすがアメリカはキャデラック・ワンを空輸してまで使うのか、などとつまらないことに感心する。あのでかい車じゃ、途中ですれ違えない道とか曲がれない角とか無かったのか。それにしても、この前に天皇皇后両陛下のどこかでの御公務の生中継を見た時もそうだったけど、スペクタクルを期待するような気持になる自分が怖い。つまり具体的には要人が生中継中に暗殺される、そしてそれをリアルタイムで見てしまうことを想像し、心配というよりも期待に近いドキドキを覚えているのだ。でもこれ、少なからぬ人が同じことを感じているに違いない。平和への退屈と、テレビの向こうの事件への期待はみんなが多かれ少なかれ持っている。きっと平和に退屈した観衆の欲求と、テロリストの承認欲求が共鳴しあうとき、想像を超える事件が起こるのだ。「十万分の一の奇跡」の人為的多重衝突事故のように、秋葉原の通り魔事件のように。
 
 ホームページを約5年ぶりに更新した。更新したというか、もうきっと更新しない宣言を書いた。ほぼチラシの裏なんだけど、完全なそれではなく、ささやかながらも資料的な価値が存在するから、削除は回避し続けるし、もしサーバースペースがサービス終了するようなことがあれば、どこか移転先を探すかもしれない。でも、Twitter やブログとの積極的リンクをしてまで生存証明をしたいとまでは思わない。もはや過去のものなのだ。作業自体も、もうFFFTPもローカルのファイルも行方不明なので、ブラウザ上の管理画面でダウンロードして更新する。この、こだわりのなさ。ずいぶん遠くへ来たもんだ。
 
 録画の整理。タブレットのカメラで、絵になる場面は写真を撮り、山場は動画で撮り、元の映像は削除。こういうスクラップブックじみたラフな残し方も、いいのではないでしょうか。いつか本気でしっかり見たくなったら、DVDを借りればよい。そして、そういう時はきっと永久に来ないのだ。だから印象的な断片だけを手元に残す。断片自体も精密には残さず、手がかりだけを残す。詳細は頭が記憶するのに任せる。こだわりのなさ。ずいぶん遠くへ来たもんだ。
 
 無意識によるリンクの発見というのは恐ろしいもの。数日前から「あずさ2号」の「狩人のお二人」というフレーズが妙に引っかかっていたのだ。どこかで見た名前。でも、この中に居たよなと思った80年代オムニバスには該当がなく。何か気になっていた。今日、唐突に「2355」の「ディオファントスの一生」のことを思い出す。自分は方程式など立てる前に、というか問題を全部聞く前に直感でぼんやり分かってしまったのだ。だって「一生の12分の1」「7分の1」という二つの情報が出てきた時点で、これらの公倍数84が連想されてしまう。168歳とか252歳いう可能性も無くはないけれど、いや無いから普通に。欠陥問題だ。などと。さてこの「ディオファントスの一生」をぐぐってみると、なんとこれが「狩人のお二人」だったのだ。狩人って誰だろう、ユーフラテスのメンバーだろうか、などと思いながらそのとき「狩人のお二人」というナレーションを聞いていたのだ。まさか繋がっていたとは。曲調も声も似ていないから、知ったところで依然半信半疑ではある。それはともかく、問題は、無意識がリンクをあぶりだしたことだ。適切な回答を、勝手に記憶の中から見つけ出してきたのだ。恐ろしい。
 
 やくざな職業、かたぎな職業ってなんだろう。20代30代で一財産作ったが早々に第一線を退かざるを得ず不安定な残り数十年を底辺這いずり回るスポーツ選手や歌手芸能人はやくざなのだろうか。金で買われて/飼われて変わり映えのない仕事を40年続ける会社員や公務員はかたぎなのだろうか。どちらも必死に生きてるし、どちらも歳を取るほど退屈そうだ。なぜ40代50代でチャラにしてまったく新しいことを始めたらいけないのか。転職というより二度目の就職に近い、経験を生かさない仕事を選んだらダメなのか。新人でも高い給料が必要だから?社会規範、成長志向に反するから?いや、そもそも労働ってなんだ?買われる/飼われることに対して評価され対価が支払われているのか?一方で変われることには大した価値がないのだろう。思考が迷子。考えすぎると死に至りそうなのでやめたほうがいいタイプのあれだ。
 
 まったく日が長くなったけど、雪駄履きで日没ドライブに出かける土曜日。片道30分もしくは40分という、気分次第で二択もできる程よい距離と、途中に島のように存在する交差点・速度制限による絶妙な緩急のリズム、そしていつでも空いてる道路。音楽を聴きながら行けば、おおよそ往復でアルバム一枚が鳴り終る。行きは夕日を追いかけて、フロントグラスに広がる空の色の変化を楽しむ。食料の買い出しをして、帰りは暗闇の中、右手に相模湾の波が鳴っている妄想をする。最高じゃないか。いまだに、ここを超える気持ちのいいドライブコースを見つけることができていないのだ。
 
 レジの店員によくわからない質問をされてよくわからない回答をして、これぞ没コミュニケーション。帰り道の途中、何もないところで妙に前の車が止まると思ったら停電。信号が消えてて、そういえばあたりも真っ暗。一人で声に出して「停電じゃね?えっ、これ停電?停電じゃね?まじ、停電じゃん?停電じゃね?」みたいな間抜けなことを言う。誰に言われるでもなく、みんな気づいて交差点ごとに一時停止するのだ(慣れているのか??)。こちらは初めてのことでキョロキョロしながら、周りに倣って一時停止する。よくわからないことに、町の西半分だけが停電なのだ。送電経路が分かれているのか、はたまたシムシティのごとく発電所からの距離が遠いほうから停電していくのか。
 
 まじめな話、少子化が問題なら、あれこれ考えて金を使うよりも夜間の計画停電をするほうがよっぽど早い。CO2排出も減るし、蓄電池や蓄電池になる電気自動車の産業も伸びる。いいこと尽くめだ。
 
 やっぱり大学というものを憎んでるんだと思う。一定レベル以下の大学なんて、ごっそり廃業させたほうが世のため人のためだ。勉強したい人、就職したい人を守るためなら、高校を強化しつつもっと柔軟にすればいい。それで、高卒でもいろいろな職業につけるようにすればいい。高校は単位制に近い形にして、3年制にこだわらず、自分が納得するまで最大6年くらい居られるようにする。モラトリアムの前倒しを図ればいい。予備校も職業専門学校もFラン大学も高校に吸収してしまい、全体平均的には教育費削減ならびに就職と結婚を早めることを図る。あと付帯効果として、現役女子高生が増えるよ、やったねたえちゃん。
 
 
帰省して 急くと芽吹きし パラセクト

病人はピザ食ってさっさと寝なさい

 貴重な定退チャンスの一週間は、いまいちチャンスを使いきれないまま、あっという間に過ぎて、明けの初日から日付越す。ほんのささやかな気持ちの休憩だけで、何も改善がない。越した上に居眠りして、すっかり体が冷え切って、震えて歯を鳴らしながら帰ったのだ。おかげで金曜の夜からなんだか体調悪く。
 
 「はやく帰りたい」しかない土曜日。頭痛が激しくて、雨に打たれて、水ばかり飲んで。日曜日は寝込んでて、月曜日まで微熱が残ったから午前休みのつもりが、熱がどんどん上がる。9度近い熱とか、黄色い洟と痰が出るとか、数年に一回の重傷だし、治りも遅い。結局火曜日は風邪薬を起用して無理くり出るが洟と痰は解消しない。
 
 一人が好きだけど、熱に寝込んで過ごす日はせつない。生命保険が欲しい。
 
 「はやく帰りたい」しかない一週間。たった一日+週末で開けた穴を補修するのに二日連続二直になって、それじゃ体にいいわけないよ。何が悪いのか、全部悪いのかわからない。不摂生で免疫力が落ちすぎてるのか、休まなさすぎなのか、単に年齢的なものなのか。実は風邪じゃなく聞きなれぬウイルス感染症なのか。
 
 ハングリー・マンは誰だ。自分なのではないか、と傷ついた獣のように考える。空き箱が積み重なると、いつもハングリーなんだねと、せつなさが積み重なる。
 
 電動歯ブラシの刃を丸一年使って初めて交換する。愚図は氏んでも治らない。
 
 「暇人企画」だか「Himajin規格」だか、もう分からない。コピー曲 BMS お手軽作成キット的な、世紀末ナローバンドな遊び。「冬が来る前に」を聞けばこれを思い出すのだ。
 
 身の回りを綺麗にしましょう五月病にならないように、略して MK5 だ。自分の影響しうる領域にささやかな秩序を作り続ける、終わりのない活動を継続できるかどうかなのですよ。
 
 ピザ食って洗車してから働きましょう。髪はそのうち整えましょう。
 
 
わがままな 体内時計の 朝早く

鳥とネズミとネズミと犬の国

 夜の珍客に見舞われ、神経が逆立つ。先の日記を投稿したとたん、暖炉からバタバタという物音が。激しい物音に混ざってチュンチュン鳴き声がするので鳥が落ちてきたことはすぐ分かったが、中が暗くて何が起こっているのかよくわからない。のたうち回っているようなので、イタチか何かに襲われているのかと訝しむ。
 
 スタンドライトを持ってきてガラス越しに照らしてみると、やはり鳥なのだった。それも兄弟なのか夫婦なのか二羽。飛べるのだからきっと後者だ。狭い暖炉の中、暗くて何も見えず、お互い飛ぼうとしてはぶつかりあってパニックを起こしていたようだ。明るくなったことでようやくわけが分かり、一羽はまもなく上に逃げていく。もう一羽は出られず、壁に止まったりこちらのガラス戸から出ようとしたりする。スズメよりは一回り大きい、地味な色のよく知らない鳥だ。
 
 問題はどうやってこれを外に出すか。勝手に上から出て行ってくれるには時間がかかりそうだし、出られずにここで死なれるかもしれない。何らかの処置はしなければならない。こんな週末の夜に、虫取り網を買いに行こうか。しかし、取り損ねた場合のことを考えると恥ずかしい。もし、うまくできた場合は記念品のように飾っておけばいいけど。考えた結果、ゴミ袋で頑張ってみることにする。とりあえず可能な限り部屋のドアを閉めて家を狭くし被害を減らした上で、捕獲を試みる。
 
 イメージトレーニングをして、暖炉のガラス戸を開けて、構えた袋に一度は入りかけて、見事失敗。鳥は床に落ちて動かない。まさか死んだのか、と思ったがまた飛び立つ。そして部屋の反対側の、天井近い壁に激突して落ちる。突っつくとまた飛び立つが、また壁に激突して落ちる。開け放ったドアにうまく向かってくれない。相当弱っているのかもしれない。3~4回そんなことを繰り返して、結局最後はもう尻尾を掴んでしまって、ドアの外にポイッチョする。冷酷なようだけど、とりあえず家の中で死んでくれなければ良いのだ。少しして見てみたら居なくなっていたから、どこかへ飛んで行って休んでくれていることでしょう。
 
 で、ようやく鳥を脱出させて落ち着いていると、今度は視界の隅を別の何かが動く。壁沿いをネズミが歩いている。実ににぎやかな夜だ。プリングルスの缶を使って捕獲して外に捨てることを考える。が、さすがに哺乳類は手ごわい。警戒心が強くて、置いた缶にもなかなか近づかない。ようやく一度入った缶を素早く持ち上げようとして、失敗し逃げられた。すると、もう二度と入ろうとはしないのだった。そして、そんな努力をあざ笑うかのように通風孔に潜り込み姿を消す。たいへん不愉快だが、とりあえず家の中で死んでくれなければ良いのだ。多少つまみ食いをされても、病気さえ運んでこられなければ良いのだ。
 
 鳥は事故、というか煙突の中に巣を作られるのは不可抗力だとして、ネズミはちょっと反省。食べ物のゴミはちゃんと臭わないように処分しないといけない。しかし、通風孔の中は安全だし冬も暖かいから、居ること自体はやはりしょうがないのだろう。とりあえず人間様の生活域に現れさせないこと、そこで死なれないことが目標だ。別に動物嫌いではないと思うけど、生活域を侵されること汚されることは我慢がならない。唯一許せるのはハエトリグモだけだ。
 
 
籠の底 生の臭いを 否定する

非国民の非休日

 ハエトリグモを一年ぶりくらいに見た。ドアの外に張り付いて、黒いけどちょっと見慣れた模様とは違う感じの。
 
 休まないと一週間が長いし、曜日が本当にわからなくなる。やはり少なくとも土日の片方を休むのは必須だ。土曜日は謎解きと昼の買い出しキャンセルと終わらない夜を駆け抜けて、日曜日はなんだろう、月曜日の午後はピンポイント雷、火曜日の午後は洪水警報フルバイブ、水曜日は点検二回戦と電話三回戦と、木曜日は死人のように早上がり、金曜日はランナウェー。なんだこりゃ。
 
 その前の週はなんだろう、火曜の深夜に人を借りに西へ飛んでガソリン探してパニくって、生まれて初めて手書きのレシートを貰って。ほぼ眠らなかったホテルから水曜日も西へ東へ花摘みジャストインタイム、遠隔操作、ブルートゥース。早朝ドライブ金曜日。偉そうに工場見学。
 
 その前の週も早朝ドライブ金曜日、癒されないタイプの空港。そしてまさかの起きたら午後1時。木曜日は椅子取りゲームと韓国海苔巻き。火曜日はパスタ試食会とショッピング、なんだこの仕事、一週間。
 
 その前の花金は上から下から不機嫌な空をくぐって、逃亡者は北へ走る。4月の通り雪に驚愕する。
 
 その前の週末は土日両日癒しを求めて空港へ。日曜日は新車でお迎えからの揚げ物地獄、土曜日は嘔吐ショー。エイプリルフールは物を拾いに夕方から花摘み特急かな。なんなんだこの四月。
 
 来週一週間は、キャッチアップ習慣だ。ありがたやありがたや。死。
 
 果たして、自分だけが分かるレベルの端折り方でオープンな日記を書く意味はあるのだろうか。メモ帳の裏のほうが良いんじゃないかな。でも、ただ、とりあえず肯定したいのだ。単にいろいろなことがあった、ということを肯定したいのだ。何を得たか具体的には言えないけど、何かが変わりゆくことを肯定していたいのだと思う。そんな感じ。
 
 芳香剤、サンプルを置いてくれろと泣く子かな。人工的な香りを言葉で表現するのは難しいんだよ。開けてみるまで善し悪しがわからない。車内用、昔はよくわからなかったけど、ココナッツとかああいう甘物系が好きかもしれない。お花系は便所っぽいし頭痛するし、柑橘系はゴミ箱っぽいし強弱が気になる。
 
 クレジットカードが最近ときどき使えない。調べてみても、上限近くまで使ってるわけでもなく、不正利用の形跡もなく。よくわからない。カードがダメージ受けてるのか、そんなことあるのか。たいへん不愉快。
 
 天気予報の音楽が変わるのは寂しいな。ジングルもいつか変わるのだ。
 
 9万年前のカルデラ噴火で九州の旧石器文化が壊滅したみたいな説明を見た記憶が。9万年前に現生人類が日本に居たのか。5万年前にようやくアフリカから出てきたんじゃないのか。道路に落ちてる軍手は、大型トラックの燃料タンクから落ちるのだとばかり聞いていたが、モグラがどこかから拾ってくるとか、夜中に落とすバイトがあるとか、ますます変な都市伝説だらけだ。トミカの手抜き働く車シリーズ、いわゆる「この車種のパトカーは常識的に考えて無いだろ」的なアレが嫌いな、可愛くない子供でした。ともかく、嘘はいけません。
 
 
せわしさや うがい忘れる 夜の底