ghouten’s diary

mi amas mono.

意識喪失型決戦兵器

 ですます調のほうが、人に向かって文章を書いている気分になれると思うので、試みとしてやってみようと思います。これまで考えていたように文章の長さで住み分けるのではなく、気の持ち方で住み分けてみます。つまり、twitterがだである調で緊張感のない独り言や詩を担当、ダイアリーがですます調で気を引き締めた広報担当になるわけです。いかにも唐突な方向転換ですが、というのも、とある人の日記を見てインスピレーションを受けたからです。語りかけるともなく語りかけてるなあ、こういう可能性もあるんだなあと。思ったようなものができるのかわかりませんが、飽きるまで、とりあえずやってみますよ。
 
 いきなり労働の話ですが、今週、不思議なメールを書きました。謝罪の言葉を使わない反省文、とでもいうのでしょうか。ここ2週間ほど社内が大騒ぎになっている件に関して、上司から「お前を責めるつもりじゃないので、まずは事実を教えてくれ」という指令が出たのでした。そこで私も淡々と、自分の知ってる事実を書き連ね、再発防止案を一言添えてメールしたのです。反省文のつもりじゃなかったから当然謝罪の言葉もありません。ところがあとから「あなたのあの“反省文”が云々」と言われてびっくりしてしまったのです。えっ、あれって反省文になってたんだ、と。さて“不思議なメール”と言ったのはそこからが変わっているからで、不思議と重苦しい気持ちがすっきりしてしまったのですね。おそらく謝罪の言葉を書く以上に、です。きっと自分自身を、一歩引いて見ることができたのでしょう。思えば、いつも闇雲に走り続けていて、何も見えていなかったようでもあります。こんなふうに、立ち止まって振り返る時間がもっと必要なのかもしれません。
 
 過去を振り返る、とは少し違いますが、ここ最近、昔の歌謡曲をよく聴いています。物によっては昭和の歌をダウンロード購入したり、歌謡曲番組をわざわざ録画したりしています。もともと音楽、特に流行歌はあまり聴かないほうでしたが、いま積極的に聴いているというのも不思議なものです。昔の歌はわかりやすいというか、すっと入ってくる気がします。なんて言うとなんだか、最近の音楽はダメになったと言い出す方々みたいですが、この意見には異を唱えます。私の勝手な仮説ですが、つまり“昔の歌”ではなく“現在まで生き残っている歌”という解釈が正しいのではないでしょうか。昔も今も玉石混合なのは変わりません。でも昔の石はとっくに忘れ去られ、いっぽう昔の玉は時の試練に耐え、歌い継がれていきます。玉しか残っていないから“昔の歌”は良いのです。まあどう解釈するにせよ、すでに多くの人に認められたもの、良い物ばかりなのは事実です。逆にもし最新の流行を追いかけようとすれば、大量の玉と石に触れ、選別しなければならなくなります。そのどちらを好むかの話です。私はもう随分くたびれた大人なので、質の悪い物にまで触れて選別する気力はありません。手軽に美味しいところだけに触れられる前者を積極的に選んでいる、というわけですね。
 
 質の悪い物に触れない、に関連して取り組んでいることがありまして、それは腹が立つだけの情報には触れない、ということです。例えば芸能スキャンダルのような、誰かを吊し上げて批判するだけの記事はスルーする。ネット上の炎上事件も、炎上していることを知るだけにとどめ、現場は見ない。こういった情報は、読めば読むほどただムカムカするだけで、何の結論も知恵も得られないことが経験的に明確だからです。元を正せば、自分と関わりのない、知らない誰かがバカなことをした、それだけの情報です。それって自分にとって必要ですか。そんなことのために読む時間と怒るエネルギーを使うなんて、なんだかおかしいじゃないですか。メディアやネットで大きく扱われてるから重要なことのように錯覚させられてしまうけど、実は伝える側にとって重要なだけで、読者にとってはまったく重要ではありません。それに気づいてから、その手の情報に「釣られない」よう意識するようになりました。幾分、ネットをみてイライラすることが少なくなった気がします。あるいは「今日もイライラせずに済んだ」という満足感なのかもしれませんが。
 
 習慣を作る、あるいはやめるというのはなかなか大変なものです。たしか昔、本で読んだのですが、曰く二週間続けなさい、そうすれば定着する、と。また、定着するまでに二個以上並行して取り組んではいけない、絶対に無理が出る、と。これは確かに本当のように見えるし、一見簡単です。ただその「二週間ずっと意識する」「欲張らない」ができないから苦しいのです。まずはリストを作ったりして、今何に取り組んでいるのか、いつでも目に入るようにすることが必要でしょう。そうしたら「毎日見る」という習慣がまず必要でしょう。「管理・更新する」という習慣も必要でしょう。またそこができないから苦しいのです、みたいな感じで思考が堂々巡りになって、結局気力不足が勝って何もやらずじまいというのがある意味「習慣」なんですね。
 
 あらゆることが最終的に「気力」に帰着してしまってる気がします。脳が疲労している、というやつでしょうか。まったく、脳はわがままな機械です。体調・気分から環境から作業姿勢まで、ちょっとした妨害要素があるだけでずんずん性能が下がっていき、仕事に集中しなかったり、すぐ休むようになります。挙句頭痛まで起こすという。取れるものなら脳を取り外してみたいものですね。脳を取り外してメロンパンでも入れてみましょうか?
 
 なんかフワフワしますが、こんな感じでしょうか?結局何も変わっていないような気もしないではないですが。使ってない脳の部分を使った気はしますよ?
 
 
骨と肉 溶け出すような 二十九度